仙台から最初に立ち寄る宿場町、七北田宿400年

道ばた

七北田宿は、伊達政宗公が1623年に開いた宿場町で、奥州街道の整備によって設置されました。2023年(令和5年)4月3日で開宿400年になります。

宿場は幕府や大名の公用などのために人馬を次の宿場へ送る伝馬を担う場所であり、荷物を次の宿に継ぐための場所で、宿や店・休憩施設があり、市も開かれたため、周辺の村から人々が集まり賑わいのある宿場町でした。

宿場の出入り口には木戸が設置されており、七北田宿の木戸は、南は善正寺付近、北は浄満寺付近にあったとされています。

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宿場町って何?江戸時代の日本における「宿場町」

江戸時代には、交通網の整備が進み、全国に広がる「街道」が整備されました。これによって、人やモノの移動が活発になり、地方から諸藩が江戸に参勤交代するようになったことをきっかけに、街道には多くの宿場町が設置されるようになりました。

宿場町は、街道を利用する人々にとって非常に重要な存在でありました。旅人は、宿場町で食事をとったり、宿泊することで疲れを癒やし、次の日の旅に備えました。また、馬を交換することで、長距離の移動がスムーズに行われました。

宿場町は、責任者である「検断」を中心に、旅籠(宿屋)や飲食店、鍛冶屋、馬喰(ばくろう)などが存在しました。旅人は、宿場町で休息をとったり、旅の道具を整えたりしました。

馬を交換したり売買したりする馬喰(ばくろう)は、七北田宿にもありました。

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七北田宿:仙台から最初に立ち寄る宿場町

仙台を出発して奥州街道を北上すると最初に立ち寄るのが、七北田宿です。江戸時代には、交通の要所として多くの人々が往来し、にぎやかで豊かな街でした。

「七北田宿」の名前は、奥州街道の宿場町を歌った「奥道中歌」にも登場しています。

「国分の町よりここへ七北田よ 富谷茶のんで味は吉岡」
(街道の起点があった北目町・国分町を出て、まずは七北田宿に。富谷宿と吉岡宿では、名物のお茶を飲もう。)

七北田宿の歴史は、1623年に仙台藩主伊達政宗が市を開くことを許可したことから始まります。当時は、宿場町として、大名が泊まれる本陣、他藩の上級武士が泊まれる外人屋、庶民が利用する旅籠や木賃宿などが整備されました。七北田宿は、松森街道から北側が整備され、その後、1660年には七北田川に橋が架けられて倍の規模になりました。

宿場町を支えたのは、検断(けんだん)と呼ばれる役職の人々でした。検断は、商人たちが売買する品物の検査や、旅人の安全を守るなど、宿場町の秩序を維持する重要な役割を担っていました。七北田宿では、沼田家や嶺岸家などが代々検断を務め、宿場町の発展に貢献しました。

また、七北田宿は、教育の場でもありました。寺子屋のほか、浄満寺に「大友塾」 市名坂に「佐藤塾」が設けられ、町の子どもたちが教育を受けました。その流れは、現在の七北田小学校にも受け継がれています。

検断・沼田家の代々のお墓は実相寺に残っているそうです。また浄満寺には古い写真や絵、寺子屋に通っていた子どもたちが建てた「筆墓」があるそうです。

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現在ではあまりおもかげは残っていない?

昭和30年までは七北田村でしたが、都市開発などが進んだ結果、当時の面影を残すものは多くはありません。

善正寺のあたりに南の木戸があり、浄満寺の前に北の木戸があったそうです。また本郷獣医跡の場所には、馬を商う馬喰があったそうです。

ミニストップ横の空き地には、井戸が残されています。

道路から見学できます。

郷土史サークル いずみのふるさとから、お散歩手帳マップが発行されていて、七北田宿についてのあれこれがまとめられているので、気になる方はぜひ入手して見てみてください。

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